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- “73年生まれ。インベーダーが日本中を侵略した頃、小学生だった筆者の目に映ったビデオゲームは間違いなく「未来へのパスポート」だった。その魅力に取り憑かれ、気づけば不惑の40代となったオッサンが、ビデオゲームと共に過ごした30年を語る連載。前回の記事はこちら。”
'85年のゲーム雑誌
1985年、ゲーム好きの中学生だった私は情報に飢えていた。ポケコンを所有しプログラムもたしなむゲーム仲間ヒラタ君の購読雑誌「マイコンBASICマガジン」のおまけ程度に掲載されていたゲーム記事が、ナムコ作品を中心とするアーケードゲームの数少ない情報源だった。そんなある日、本屋で1冊の雑誌を知る。アメリカンテイストなポップなイラストの表紙に「Beep」と雑誌名が書かれていた。またパソコン情報誌かと思いつつページをめくると、そこにはアーケードゲーム、家庭用ゲーム機、パソコンゲームとビデオゲームの情報が網羅されていた。当時多かったプログラム投稿誌や、パソコンゲーム中心の誌面とは違ったビデオゲーム中心の誌面に、「コレだ!」と思い購読を始めたのであった。
ファミコン雑誌創刊ラッシュ
その後、ファミコン情報の専門誌「ファミリーコンピュータマガジン」が創刊。子供向けっぽい誌面が、中学生となった私にはコレじゃない感があったがファミコンの情報源として重宝することに。そして翌年の1986年は「ファミコン通信」「マル勝ファミコン」「ハイスコア」「ファミコン必勝本」などファミコンブームの波に乗り続々とファミコンの専門誌が創刊され情報に飢えていた時代が嘘のような環境となり、友人間で購読する雑誌を決め回し読みしたり本屋で立ち読みをし、次々と登場する未知のタイトルに夢を膨らませた。
セガマークIII
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ゲームセンターに通うようになって、ヒラタ君からゲーム好きの同級生、リョータを紹介される。今まで私と接点のなかったリョータだが、ヒラタ君曰く「リョータなら『ドラゴンバスター』をワンコインで1日中プレイし続けることができる」と言わせるほどの猛者で、ゲームセンター内でも名の通った存在だった。ビデオゲームという共通言語を持つリョータと私はすぐに友達となった。
ある日、リョータが「セガマークIIIを買ったので家に遊びにこないか?」と誘ってきた。リョータの部屋に行くと、自分専用の14インチのテレビがありそこにマークIIIが接続されていた。両親も共働きで夜まで帰ってこないという。ファミコンよりカラフルな画面と、ゲームセンターでの人気作『ファンタジーゾーン』や『スペースハリアー』キャラゲーの傑作『北斗の拳』を土曜日の午後、延々とプレイし続け、マークIIIのパット脱着可能な棒は使うべきか否か? 次はどのタイトルをファミコンやマークIIIに移植して欲しいか? などのゲームトークに花を咲かせたのであった。
記事提供元: Game*Spark