
地方競馬と中央競馬の格差が今よりさらに大きかった時代、ハイセイコーは移籍から3戦目でクラシック三冠のひとつ、皐月賞を制覇してしまいます。この偉業に日本中は熱狂し、ハイセイコーの人気は競馬場の外を飛び出しました。
続く日本ダービーのトライアルレースのNHK杯では、東京競馬場に約17万人が押し寄せるという前例のない事態が発生。その中でハイセイコーは直線まで苦しめられるものの、最後の200mで劇的な追い上げを見せて勝利。ハイセイコー人気は社会現象にまで発展しました。
◆「馬券を買わない競馬ファン」も登場

その後の日本ダービーでは、まさに全国の人々の視線を背に受けつつも3着と惜敗します。ただしこれでハイセイコー人気が縮小することはなく、むしろ日本ダービーを制したタケホープという生涯のライバルを得てアイドル的人気がさらに過熱しました。
このタケホープには、菊花賞でもハナ差の2着に敗れるなど苦戦を強いられます。しかし、彼らの対決は「競馬は単なる賭け事ではなく、物語性のあるドラマチックなスポーツ」であることを競馬ファンではない人々にも伝えました。

「自分は馬券を買ったことがないけれど、競馬を観戦するのが大好き」という人は今でこそ珍しくありませんが、そうした「馬券を買わないファン層」を創出した張本人はハイセイコーと言えるでしょう。
ハイセイコーが活躍した時代は、高度経済成長期が一段落した頃と重なります。
それまでの伸びやかさは徐々になくなっていき、10年前までは町のあちこちにあったはずの広場や空き地も不動産開発の影響で消えていきます。それは子供たちにとっては、思いっきり野球ができる場所が失われていったということでもあります。
膝を自由に伸ばせない息苦しさに苛まれていたのは、子供時代を卒業した青年も同様でした。国民的スター集団だったプロ野球巨人軍は1973年もリーグ、日本シリーズ共に優勝を果たすものの、10年前から殆ど変化しない顔触れの選手たちには明確な衰えが表れていました。結局、この73年シーズンが巨人V9時代最後の年になります。
当時の大学生たちは上の世代から「しらけ世代」と呼ばれ、革命にも過激な闘争にも一切無関心の態度を見せます。僕たちは、ヒッピーとも反戦運動とも関わりがない。阪神や中日に負けそうになっている巨人軍にも興味がない。ヘルメットを被ってゲバ棒を振り回していた上の世代と一緒にしないでくれーー。
しらけ世代に該当する筆者の母は、「ヒッピー文学は読んだけどまったく共感できないし、感動もしなかった」と言います。学生運動を主導した世代とそのすぐ下の世代とでは、ここまで大きな意識の温度差が存在します。
そんなしらけ世代は、しかし心の底で「新しいスター」や「次世代のアイドル」を探していました。
ハイセイコーは、日本人が高度経済成長期に一区切りをつけて新しい一歩を踏み出すための原動力の役割を果たしたのです。